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三論宗とは

 

三論宗の起源はインドで、多くの経典を中国語にした鳩摩羅什により晋代に中国に伝えられた。髄, 唐初のころ僧吉蔵により中国十三宗の一つとして完成した。 日本には、推古天皇の時代、吉蔵の弟子で高麗出身の慧灌が推古 33 (625) 年に日本に渡来し始めて仏教を正式に紹介した。慧灌は初め飛鳥の元興寺に住したが,のちに井上寺 (いがみじ) を創建して三論宗を広めた。

 

三論とは2~3世紀ごろのインドの竜樹(ナーガールジュナ)が書いた《中論》と《十二門論》およびその弟子の提婆(だいば)の著《百論》の三つを指し,クマーラジーバ(鳩摩羅什)の中国訳によって,これらから《般若経》の説く空観の精髄を示す〈三論宗〉が成立した。《三論玄義》はその教科書であると同時に,空観を最も簡明に要約し解説した仏教入門書でもあると言われている。

クマーラジーバ没後,隋の嘉祥大師吉蔵によってそれまで南北両系統に分かれていた三論学の伝統が集大成された。

 

日本では、奈良時代に南都六宗の一つとして盛んに研究され、福亮(ふくりょう)、智蔵(ちぞう)らがこれを広めた。その後、大安(だいあん)寺派と元興寺派に分派した。平安朝以後は日本の僧による新興仏教が次々と樹立され、これらの仏教は教学的には三論宗に大きく影響されながら実践を第一としたため、学術的な三論宗はこれらの宗派の土台となり、独立性を失うこととなった。

 

…《日本書紀》によれば,慧灌は、625年(推古33)高麗王に貢せられて来朝し,僧正に任ぜられたとある。《三国仏法伝通縁起》には,慧灌は中国の嘉祥大師(吉蔵)から三論を学んで日本へ来て,三論宗の始祖となり,飛鳥の法興寺に住したとある。僧正の補任(ぶにん)について,《東大寺具書》によると,孝徳天皇のとき,天下が干ばつにおそわれたので,慧灌を召し寄せ,青衣を着けて三論を講ぜしめたところ,大いに甘雨が降り,その褒賞として僧正に任ぜられたと伝え,《元亨釈書》には祈雨の三論講説を625年来朝の年とし,晩年には河内の志紀郡に井上(いのえ)寺を建てて三論を広めたとある。…

 

 

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